昭和44年2月20日 朝の御理解●



 「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならん」と。「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならん」と。おかげにならんということを、それから、「おかげも早いが」というふうな。
 これは、例えば、病気などをいたしますと、いち早く、あの、お届けに行ってと、お届けに見えます。火急の場合は電話ででも、夜中に電話がかかってくる事がございます。
 これは、あの、ここに、田主丸に小野病院と言うのがございますでしょう。あちらの先生、毎日参ってまいられますが、もうこれは絶対ですね。患者の入院がありますと、その人達のお届けがまず先にあるんです。手術と言や、まずメスを取る前に、お届けがあるんです。火急の場合はもう、夜も夜中もない、電話、または女中さんを走らせてお届けに見えます。お医者さんでもやはり、そこんところですね、その、はっきり感じておられる。
 ある時、もう簡単な手術だったそうですから、もう自分は簡単に思って、その、簡単な手術ですがなさったところが、さあどっこい出血が止まらないわけなんです。それで慌ててその、あの、お詫びをされ、改めてお願いをなさったことがございますが。
 もうはっきり人間の限界と言うものは決まっておるのですから、人間の知恵とか力とかによって為す事は、これより以上できない。「神様のおかげを頂かなければ」と言う思い込みがありますところから、そういう事になってくるんじゃないでしょうかね。いわゆるその、薬と言う、または医薬と言うその、を毎日使っておられる、そのお医者さんがそうなんです。ですからまず、神様にお願いをして薬を飲まっしゃる。神様にお願いをして手術をするという生き方なんですね。そりゃあもう(おかげが?)たいへん。もうほんとに、たいへんなおかげを受けておられます。
 ところがその、「薬れ祈れにするからおかげにならん」と。薬れと。さあ、頭が痛いって言うたら、その薬を飲む。先にする。そして、良うなりゃまあ良うなったでいいけれども、それでちょっとこじれていかんござっ時には、神様にお願いをするというような事では、おかげにならん、とこう仰っておられる。これは病気が良くならんといったような意味ではないと思うんですね。
 そういうような事では、ね、本当の意味でのおかげが受けられんということだ、とこう思います。その証拠には、薬一本で、あの、良くなったり、おかげ頂いたりしてる人がありますもんね。その病院の先生が、皆が皆、金光様の信者じゃないですから、そらもう、信心の事なんか言うたら、かえって(打ち崩したり?)、そうした医者があるくらいですから。ね。
 だから、ここんところで言う、そのおかげと言うのは、ほんとに神様が下さろうとしておるおかげが受けられん、ということだと。または、ほんとに神様が下さろうとしておるおかげが受けられる、ということだと思う。ね。おかげが受け、おかげが早いがと仰るが、本当の、神様の下さろうとしておるおかげが受けられんのである。そのおかげが早く受けられるのであり、ね。
 ですから、「薬れ祈れ的な信心」では、神様が本当のおかげを下さろうとしてもです。そのもう、そういう事にはおかげはならん、と断言しておられますから、これはもうおかげにならんのです。ただ病気が治るとか治らんとかそんな事じゃない。ここで言うおかげは。神様が下さろうとしておるおかげが成就しないのです。ね。
 ですからここんところを、なら祈れとか薬れとか言うところをですね。もう薬れだけのことじゃないと頂くと、どういう事になるかと言うと。祈れということは、神様を先、いわゆる、神様を中心という生き方なんです。ね。ご信心中心。神様中心。言うならば、神様本位ということなんです。ね。神様本位ということ。
 ですから、「薬れ祈れ」ということは、どういうことかと言うと。薬れの方が先とこれはどういうことかと言うと。これは、人間本位。私本位。私を中心にした考え方の信心ということなんです。自分中心なんです。ね。
 ここを頂いてまいりますとです。なるほど、自分中心の信心では、いいですか、その、今言うように、病気が治るとか治らんとかといったような意味合いのおかげは受けますよ。神様に願わんでもおかげを受けておる、信心のある人達は。ね。もう「病気すりゃお前は、医者があるじゃないか」と。「死にゃ坊主がおるじゃないか」と。と割り切ってしまうっておる人もありますけれども、そういう意味だからおかげじゃないと。ね。
 ここで言うおかげと言うのは、神様が本当に「氏子信心しておかげ受けてくれよ」と仰るおかげなんです。ね。神様が下さろうとしておるおかげが、こういう言わば、人間本位の信心では受けられぬ、ということなんです。ね。祈れ薬れということは、ね、神様を中心に申し上げた生活。また、神様を中心にしたところの信心。ね。
 それをもう少し分かり易く言うと、あの三代金光様の教えて下さっておる事の中にです、ね。「氏子が神様任せなら」ね。「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますから」と仰る。ね。人間が神様任せになるという気になりゃ、神様が氏子任せになって下さる。神様が氏子任せになって下さるということになったら、もうどういう事になってくる。たいへんな事になってくる。ね。
 まあ、これは大坪総一郎、私ね、私の程度の信心であっても、私が神様任せになっておりゃ、このようにおかげが、言わばおかげが受けておられるわけなんです。私、大坪総一郎の考え言うものを捨ててしもうて、神様本位、神様の思し召しのまにまに。ね。
 それを、なら神様任せで行かずに、人間がね、神様を自分任せにしようとしておる生き方。「神様、どうぞ右にして下さい。左にして下さい」と言うのはね、まあ言うならば、これは神様を使っておるようなものであって、どうぞ神様、今日は、集金がよく寄りまする。まるきり、神様ば、集金人などと思た。ね。いわゆる、神様任せならではなくてから、人間任せ、ね。神様を人間の思うように使おうとしておるような生き方では、ほんとのおかげは受けられん。それが「薬れ祈れに」ということなんです。ね。
 今日のこの47節を頂きますと、この御理解が非常に深いことが分かりますね。ただ、「祈れ薬れ」「薬れ祈れ」といったようなふうに頂いておるような時は、これはどうも合点がいかなかったんですよね。「薬れ祈れにするからおかげにならん」なんて断言しておられるが、人間、薬を先に飲んだっちゃ、やっぱ良うなりよりますよちゅうごたるふうな、考え方があったんですけれどもね。
 けれども、なるほど今日の御理解頂きよると、「薬れ祈れではおかげにならん」と断言しておられるのです。なるほど、おかげにならんです。ね。そのおかげというものは、神様が「信心しておかげを受けてくれよ」と。または、おかげを下さろうとしておる、そういうおかげは頂けんぞと、なるほど断言しておられることが分かります。
 昨日、福岡の高橋さんがこういうお届けをなさるんです。今度あちら、今まで冷房装置ができておりましたけれども、その冷房のこと、またやり換えられるわけです。ほんで、水冷にするか空冷にするか、と言うので、以前お伺いがあっておりました。
 ところが、御神意を伺うたら、水冷にしたが良かろうということであった。そこで、業者の方に水冷の事を願ったんです。ところが、あちらあたりでは、非常にその、水不足の時なんかは、水冷は役に立たない事があるわけなんですね。水が出なくなったりしたらもう、冷えないんです。それで、その業者の人が言うてくれるのには「そら高橋さん、水冷じゃいかんですよ」と、「どうでも空冷にしなさい」と。それでもあの、御神意を頂いたらこうだったからと。相手も信心の事が分かる方ですから、そう申しましたところが、(録音不良)空冷じゃなかにゃいかんよ、とこう言う。そこに、改めてのお伺いがここにあったわけなんです。ね。
 ほんで、「そう業者は言いますから、御神意を頂くと水冷ということでございましたけれども、空冷でなからんといかんと言いますから、どうさしてもらおうか」と。「そんならあの、空冷にされるように改めてお願いをいたしましょう」と私は申しました。「なら、どうぞそういうふうにお願いして下さい」ということで、高橋さん、皆さん帰られて、また後でまた出て見えてからです。「先生、空冷でおかげが頂けるようにお願いいたしましょう、と今日親先生が仰ったが、あれは先生、どういう意味なのでしょうか」と。「本当はだいたいどうなのでしょうか」と言うから、そりゃ高橋さん、ほんとは水冷が本当なんですよ、と私は申しました。ね。
 けども、その水冷と言うのはね、のおかげと言うのはどういうことかと言うと。冷えるとか冷えないとか、水が切れるとか切れないとかということじゃないのですよ。神様が水冷が良いぞと仰ったらです、たとえ先の事は、もうあなたに任せてあるんだ。そうでしょうが。出るとか出ないとか、冷えるとか冷えないということはもう、あなたに任せてある生き方なんです。ね。いわゆる、おかげと言うものをもう無視してある、そこには。「神様任せ」ということ。
 神様任せになるということはね、おかげが頂けるということじゃないです。ね。反対の事へ反対の事へさえなって行くんです。それは、本当の意味においてのおかげ。ね。を頂く為に、そこんところは、また他に別に、またの機会にお話さして頂きますけれどもね。
 結局、高橋さんが願うておられるところの水冷。神様が水冷と仰るから、たとえよし冷えないような事があっても、水冷にいたしますということは、「神様任せになる」ことですから、本当の事は水冷ですよと。けれども、まあこれは私でも、ね、信心、一家中が信心しておるというわけではないから「ここで神様へお願いをしてから、お前は、水冷にしたばってん。お前は、こげん困るじゃないか。冷えんじゃないか」と言われたら困るから、信心、高橋さんあなた一人ならば「いいんやいいや、そら水冷にしなさい」と私は言おうけれども、そういう事があるのなら、そんなら空冷に、でおかげを頂くようにお願いいたしましょう。
 だから、ここで言うそのおかげって言うのは、全然、言うて下さるおかげの意味が違うわけです。ね。そういう実例を持ってすると、今日の御理解47節なんかがよく分かるでしょうが。だから、金光様のご信心は、この辺のところがようく分からしてもらわんとです、金光様の信心の、いわゆるほんとの、何と言うですかね。金光様の信心の本当の有り難さということは分かりません。ね。
 神様を使う。いわゆる、神様を自分が使うように、まあ自分の為に働いてもらえるように、神様にお手伝いをしてもらうような信心ではです、なるほど、お手伝いもして下さる。願えば願った通りのおかげも下さるのでございますけれども。そのおかげは、だから、本当のおかげじゃない。ね。
 ほんとのおかげと言うのは、私どもが神様任せにならせて頂いて、ね。神様任せにならせて頂いて、神様が氏子任せになって下さった時のおかげが、ほんとのおかげなんです。ね。言うなら「祈れ薬れにすればおかげも早いが」と。「祈れ薬れ」になったところからです、いわゆる、祈れと言うのは、神様を先に持ってくる。いわゆる神様中心、神様本位の生き方にならせて頂いて、頂くおかげでなからなければ、だから、結局はほんとのおかげと言うのは、そういう生き方の信心の方が、おかげは早いわけです。ね。
 今日は、47節から、皆さん、金光教の信心のいわゆる、言うならおかげということの、いろんな意味合いにおいての深さが分かったですね。「薬れ祈れにするからおかげにならん」ね。こういう事ではおかげにならん。おかげにならん、とこう言うておられる。ここんところは、一遍御神誡を一読されるといいんですね。
 御神誡を十二ヶ条ありますが、そこの御神誡を一遍ずっと見て、ね。こういうことではおかげにならん。ね。「真の道におりながら真の道を踏まぬこと」とか「幼少の時を忘れて親に不孝のこと」とか、というふうに御神誡がございますが、その御神誡をです、もう一遍、「はあ、これじゃおかげにならんはずだな」と言ったようなものを、改めてひとつ、皆さん頂いてもらいたいということと同時に、今日私はね、おかげを頂く為にはね、おかげを頂く為には、そういうひとつの条件が揃わなければならないように、ね。
 今度は、反対におかげが受けられないとか、または頂いておるおかげを落とすとかという時にもです、必ず条件が揃うておりますよ。おかげを落とさなければならない条件が揃うとって、ね。ほんとのおかげを頂く為には、おかげを頂く為の条件がある。ね。
 ここでお取次ぎの、お取次ぎさせてもらいよってですね、もうおかげ頂くと、ほんとに思うような場合がありますもんね。もう実に赤裸々です。もう心の底から願われる。そしてですね、もう何ちゅうんですか。「もうほんとに神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのです」と言う、その願いが、その願いの中に現われておるんです。もうそういう時には、もう絶対おかげになるんです。「(何と言うても?)神様にすがらにゃできません」と言うて、神様の前に両手を挙げて来ておるです。無条件降伏、神様の前に。ね。
 しかも、今までは、言うならば、何と言うんですかね。秘密主義なら秘密主義の人がです、もう赤裸々に、恥も外聞も投げ捨ててです、もう赤裸々にお取次ぎを願われる。もうそういう時なら、おかげ絶対頂くと私は思います。または、必ずおかげを受けておりますですね。
 だから、おかげを受けるということにはね、そういう一つの条件が、やっぱ揃わなければね、ほんとのおかげになって来ないんです。ね。それを「祈れ薬れ」というところの、お話ばするんですね。だから、「薬れ祈れすればおかげにならん」とこう言うところ。ね。ここんところは、まず、御神誡をもう一遍拾とかないけません。ね。
 「はあ、これじゃおかげは受けられんなぁ」と言うところをひとつ、悟らにゃいけません。ということと同時にです、おかげ、頂いておるおかげを落とす時って言うのを、おかげが受けられない時にはね、もう絶対、(たとえんなら?)おかげを落とすばい。ね。頂いておるおかげを落とす時には、ね。ただ一遍、二遍お粗末ができたから、ご無礼ができたらからと言うて、おかげを落とすようなこと絶対にありませんよ。十遍、二十遍ご無礼ができたらからと言うて、おかげを落とすようなことはありませんよ。
 いよいよおかげを落とす時にはですね、もうあらゆる角度から見て、おかげを落とさなければならないような状態になってしまっておるんです。条件が揃うとるです。ね。
 ですから、ほんならもう、おかげを落とす為の、(九十九?)と言うほどの条件が揃うておっても、後のひとつのところで、はっと分からしてもろうて、「はあ、これではおかげが受けられん」と思うたら、そこに180の転換を試みますとですね。言わばおかげの、もう一つでおかげを落とす条件が揃うておっても、また、ほんとのおかげの受けられる方へ展開してくるです。おかげの展開ですよ。いわゆる。ね。ただ「こげなこっちゃおかげ頂かれんめ」というふうなことがですね、自分でもいつも思いながら、お粗末ご無礼ができていきよる。もう絶対ですこれは。ね。
 例えばあの、不信心になった人って言うのは、熱心に信心しておってから、スパッと信心を辞めるような事がありましょう。それけんちゅうて、二年、三年絶対おかげ落としたことありませんもんね。かえっておかげ頂きよる場合もあります。そして、不信心になっていってですね、神様の悪口どん言うごとなってきたり、先生の悪口まで言うようになってきたり、様々に、ようおかげを落とす条件と言うのが揃てくるわけです。そして、最後のところでギャフンちゅうてやられるわけです。もう絶対ですこれは。
 それでですからね、神様一遍でスパッと辞めさすこと決してない。ね。それまでの間に、分かってくれよ、分かってくれよと、次々と、いわゆるそれをお気付けとこう言います。ね。
 そういうおかげを落とす為の条件がですね、揃うてしもた時に、もうこれは、いくら(さかたんぼったっちゃ?)もう難しか。ね。だから、私どもそこんところをですね、気が付かずに、そういうおかげの受けられないような条件を揃えておるような事はなかろうか。いや、片一方には、おかげの頂けれる条件の信心ができていきよりましても、片一方には、おかげを落として行くような条件の生活状態とか、心の状態というものであればです、ね。せっかく、十になったのがまた、五に戻っておる。というようにです、そこんところを、これは「同道周りの信心」と言うのです。いつまで経っても同じところ。おかげを落としもせん、おかげを受けません。同道周りなんです。ね。
 今日は、ここんところを特にひとつ皆さん、あの、頂いていただかなければならん、とこう思うんです。私、今日もほんとに御祈念中に、冷やっとする事があったんですよ。ある、ずーっとお願いをさして頂きよりまして、ある人の事をずっとこう願いさして頂きよりましたら、あの、●この庭園ができましたね。庭の向こうの、一番南の端に杉がずーっと植わって、植わりましたでしょう。
 いわゆるあの、穂先が揃うてるところですよ。ずーっと、杉の穂先が。そこんところを頂きますもん。「杉」と言うお知らせは、「松」に対するおかげなら、「杉」のお知らせはおかげを落とす時に頂くお知らせです。
 しかもね、穂先が揃うたということはね、もうおかげの、おかげを落とす条件が揃うたということなんですよ。もう私それでもう、その事を今日は一生懸命、私はね、今日は、私が今日一日お待ち下さい。「今日一日お待ち下さい、私がこういう修行さしてもらいますから」と言うて、まあ繰り返しお願いをして、まあようやく、こう聞き届けて下さったといったような感じでございましたけれどね。
 おかげを落とす条件が揃とった。ね。それを本人は、平気でおるんですから。ね。そんな事がちょいちょいあります。ね。ですから、おかげを頂く為に、おかげを頂く条件が揃うて来るようにです、おかげを落とす時にも、おかげの条、もう、一遍ご無礼したけん、おかげを落とすということは絶対ありません。
 もうそれこそ、繰り返し繰り返し、お粗末ができるご無礼ができる。それでも神様は、ある意味合いでは、知らん顔のようにしておられるけれども、追いを見ては「そげな事ではおかげを落とすぞ」「そういう事じゃいけんぞ」とお気付けがありますけれども、それを気が付かない。そして、おかげを落とす条件を揃えて行くんです。
 いかにあの、だから、あの、御神、今日私が言う、御神誡などを自分の心の中にしっかり頂いてです。決して難しい事じゃないのですから、あの御神誡が自分の物になってしまわなければ、ね。同時に、「薬れ祈れ」ということは、薬を先ということは、ね。人間を先に、人間の考えを先にするということなんです。いわゆる人間本位なんです。ね。人間本位の信心では、ここでは「おかげが受けられぬ」とはっきり言うておられるでしょう。
 「薬れ祈れにすればおかげにならん」と仰る。ね。おかげにならんと断言しておられる事は、病気が治るとか治らないと言ったような事じゃない。神様が下さろうとしておるおかげが受けられんのです。
 んなら、「薬れ祈れ」がどういう事かと言うと、ね。病気をした時に、薬を先に、そして神様を後にするというような事なんですけれども。それを信心でよく頂きますとです、ね、「薬れ祈れ」ということは、ね。人間本位の信心だということです。神様を中心にした信心ではない。すると、反対に「薬れ祈れ」(祈れ薬れ)と言うのは、神様を中心に申し上げた信心だということです。ね。
 この辺をよく皆さん分からにゃいけんですよ。「薬れ祈れにすればおかげにならん」と断言しておられることは、ね、私どもが、もういつまでもいつまでも自分本位の「どうぞ、私がおかげを頂きさえすらええ」と言ったような信心が、どういう白熱化してまいりましてもですね。その事をおかげを受けてもです、いわゆる、その事をおかげを受けても、神様が下さろうとしておるおかげは、(?)受けられぬ、と仰る。絶対に受けられない。ね。
 そういう、まあ具体的な例を高橋さんの、水冷・空冷の冷房、そういったことでお話しましたね。
 場合によってはだからですね、そのおかげの方を取ってお願いしなければならない場合もございます。ね。高橋さんの場合はそうなんです。けれども、ほんとのいよいよの時になったら、よし冷えるとか冷えないとかの問題じゃない。神様が水冷と言うて下さるのであるから、水冷で、やっぱそこを推し切って行くというような生き方こそが、神様を中心にした生き方だと。ね。
 そういう生き方の、その先の先にです、必ず、神様が下さろうとするおかげがある、ということを申しましたね。
 御理解47節が今まで頂いておった、例えば、これは病気だけの時の御理解のように思うておりましたが、どうも、それではどうもおかしいなぁ、と気付くところがある。それは一番最後に「薬れ祈れにするからおかげにならん」と断言しておられるが。これは、教祖様は、ちぃとオーバーに言うてござるような感じ。
 それはやっぱ、薬を先にしたっちゃ、おかげ頂いとりますもん。「いいや、神様、全然お願いせんでん、薬だけでおかげ頂いとりますもん」という事実があるということ。そういうおかげは受けられるけれども、神様が下さろうとするおかげは受けられぬ、ということだと分かりましたね、今日。ね。
 ですから、ほんとにひとつ、お取り組みは「何事にも信心にならせて頂く」という生き方。ね。何事にも信心にならせて頂いて、いわゆる、御神誡などはもうほんとに、自分の信心の血に肉に、ね。それはもう当然のこと、当たり前のこととして、自分のものにならなければならんのに、この御神誡を読んでみると、「はあ、これもできとらん、これもできとらん。はあ、これじゃぁおかげが受けられん」ということをお互い気付くのです。ね。
 ですから、そこんところを改めておかげを頂いて、そして、いわゆる、おかげも早いがと仰せられる。こういう生き方に有り方になりゃです、言わば十年でかかるようなおかげでも、五年で頂けれるように、言わば早くおかげを受けられる。そういう有り難い、そういう芯に、そういう方向に自分の信心姿勢を向ける事によってです、おかげが早くなってくる。ね。おかげを頂きたいと、真に神様が下さろうとするおかげを頂きたいと思うなら、どうでも神様本位にならしてもらい、神様をご中心に申し上げた信心生活になってかなきゃならんと思うですね。どうぞ。


明渡 孝